2011年10月29日土曜日

ぼちぼち

土曜日。簡単に言えばぐったりしていた。疲れているわけでもなく、怠いわけでもなく、ただ動きたくないという感じで。

相変わらず活字中毒で本を手に取って横になりながら読むのだけれど、なんだか入りきれない。文字が脳を素通りして消えているような感じ。それでも、行ったり来たりして読むのだが、今度は強い眠気が読書を阻害する。それに対しては抗しない。目を瞑る。そして、うとうととする。そうすると、夢うつつに素通りした文字が姿を現して蘇ったり、ここのところ思い続けているものが変形して、そして、これが答えだと言わんばかりに夢の中に現れる。

目を覚ました後、そうなんだよな。と改めて思って本を読み返したり、覚悟を決めたり。

ぐったりも悪くない。身体は正直だ。そして、それに抗せず、素直に応答する。それが、短期的に見ていいことなのかはわからない。しかし、長い目で見れば「とんとん+α」の「ぼちぼち」な生き方に結びつくなのかもしれない。そんなことを思っていたら、息子に買った絵本の「でっこりぼっこり(高畠 那生)」が急に思い出されて読み返した。そしたら、福岡伸一がいう動的平衡に近い考えだなと思った。

「とんとん+α」が長い目の理想だ。関西でいう「ぼちぼち」。それって良い印象をもたれない気がする。ボクは存外そこに達する事は難しいと思うのだけど。それって、自分は劣等生だからそう思うのかな。

集英社の「レンザブロー(http://renzaburo.jp/)」の益田ミリの「夜空の下で」がとてもいいです。夜空を眺めて「ぼちぼち」やっていきませんか。星が見えない夜空でも、空を眺める余裕を持てたらそれこそ豊かな時間です。

2011年10月25日火曜日

味付け

昨日のスープはアサリのかわりにシャケ缶を使ったので少し味噌を隠し味に入れたらとても美味かった。味付けという一手間がなした「おまけ」はあった。

帰宅後10k。折り返し点を過ぎて直ぐの木陰を通過中、頭を軽く殴られたような衝撃。痛みはなかったが、何が起こったか解らず。しかし、立ち止まりもせず。念のため頭を手でなでて流血がないかどうかを確認すると、それもない。なんだったんだろうか。落ち葉を見る限り、栗系だったので毬栗? もしくは、烏かなにかに襲われた? 結局何かわからず。

昨日は、火玉。今日は何だか解らないが「おまけ」付きのランニングだった。怪我もないことだし、こんな「おまけ」も日々の味付けにはなる。

2011年10月24日月曜日

おまけ

昨晩作った、「適当」クラムチャウダーが美味かったので今また作っている。鍋に適当に野菜を刻んで入れて、アサリの缶詰を空けて入れて、牛乳と少々の水を入れて煮るだけ。塩、コショウで味を整えればサッパリと野菜とアサリから十分出汁の効いたスープだ。スーパーなどに缶入り、もしくは、パック入りのスープがあるが、塩辛いは、濃厚過ぎるはで舌と胃が受け付けない。こんなに簡単にできるのであれば、自分で作る方がよい。今日は美味いのができるかな。楽しみだ。

帰宅後、10kランニング。どことなく疲れているので軽く流す。街路樹の葉っぱが7割位落ちた感じだ。今日は良い天気で、そこを夕暮れ時に走るのは寂しいような、美しいような。

走っている彼方前方に白みがかった火球が現れ、花火のような残光を置き土産に消えていくのを目撃した。まだ、夕暮れの始めでまだ外は明るい時だったので、その光度は随分強いと思う。その白みがかった色からは、高い温度で燃焼しているのが推測された。ドイツの衛星?とも思ったけれど、流れ星かな。それを見て、走った「おまけ」をもらった気がして得した気分になった。

思いもかけない「おまけ」はうれしい。今日のスープに「おまけ」は付いてくるだろうか。

2011年10月23日日曜日

歩く、自問自答する

いい天気だった。美しい青空と浮き雲。

朝から本を読んでいた。読みたい本が多過ぎる。でも、外が僕を呼んでいる。晴れなんてどんどん少なくなるぞ。って。でも、負けずに読んだ。でも、カーテンを降ろして、少し外が見えないようにして。遮光カーテンじゃあないので、うっすら陽気が入り込み、負けそうになった。が、読んだ。今、これを読むべきか、必要があるのかはわからないけれど、なんか、読まずにいられない、刺激が僕を押す。

読了した時、言葉を失った。そして、その失った言葉を探しに散歩に出た。小田実はいう。「思想というのは歩いて考えるといちばんいい」僕も、自問自答は歩いている時が一番いいと思っていた。

思想というと何だか難しそうだが、自分が生活する上で何を「そもそも」大事にすべきか、ということだとすれば、言葉の上では難しいことではない。

歩いたが、失った言葉と、その理由は言葉にならなかった。ゆっくり考えればいい。歩く時にまたぼんやり考えればいい。○×ではないんだ。

自問自答。それに対する自問自答。を繰り返して生きていくのだな。生きると歩む、は似ているかもしれない。自問自答する過程が生きることなのかな。などと思ったが、そうでもないかもしれない。わからない。から、また自問自答をするのだな。

2011年10月22日土曜日

頭が悪い

雨、曇、晴、曇、雨。。。そんな天気。この場所のこの季節らしい。ここに来た当初は鬱陶しかったが、この気候はここの自然を守り、そして、ここに根付く文化の根本にある。日本の、そして、自分が住んで来た地元と比べてどうこういうというのができないというのは、最近になってようやく気づいた事である。

最近、テレビを殆ど見ていない。外部の「新しい」情報を確認するのは、一日に数回、目の前にあるMacでインターネットを通して確認するニュース。「本当の」新聞に比べて内容が圧縮されていて物足りないところはあるが、それでも情勢はある程度見て取れる。震災、原発、TPP、アラブ革命。。。そして、カダフィの死。

報道が事実だとすれば、独裁者カダフィの最後は普通の人だった。命は惜しい。若い兵士(だといわれる)が、カダフィの黄金の銃を使って(だといわれる)、命乞いするカダフィに向かって引き金を簡単に引かせたのは(うまく出来過ぎたストーリーのようにも思えるが)積年の恨み、そして、それに加わる何かがあってこその結果なのだろう。独裁、反体制派への熾烈な攻撃によって頂点に達した民衆の憎悪。それはわかる。それでも、引き金を引く瞬間の心理はどんなものか。ところで、カダフィはなぜ独裁者となったのだろうか?その過程にも興味がある。強いリーダーシップから独裁への過程に。

「そんなこと決まているじゃないか」「頭が悪い」といわれそうだが、わからない。そんなことを考えても意味がないとはいえるが、だからこそ、時間的制約もないので、ゆっくり自分の頭で考えたい。

まー、そんなどうでもいいことを考えながら、朝、ベランダにある庭木に水を与えていた。

今日一日と言えば、複数冊の本を読んで過ごした一日だった。読んだそばから薄れてしまう内容。頭が悪い?

2011年10月21日金曜日

尺度という亡霊

あーでもない、こーでもない と考えている。諸々。色々な考えが亡霊のようにふわふわと浮かびは消える。亡霊はまた現れ、変化する。

考えている。何が大事か。多角度から考え、削ぎ落とし、芯を浮かび上がらせ、そして、どう決断するべきかを。しかし、自分の知識や知性などたかがしれていて、どこが芯なのかわからない。考えは、ふらふらとして全く頼りない。まだ、考えがだぶつき、惰性を持ったその力を止めおおせず、自分のものとして制御し加工しきれていない。

尺度は自分が学んだ積年の原理原則である。そんな尺度なのだから危うい。しかし、そこからしか私は判断することはできない。人の尺度を借りた判断では、間違いに気づいた時に、それを有耶無耶にし、その結果を「その」人に責任転嫁するであろう。であるからこそ、自分の原理原則を「今」の自分で濾過し直して微調整し、自己の納得を得た上で、尺度として利用すべきだ。間違うよりも、間違った時にそのことを無きもとすれば微塵も成長は無く、後退として背中に消えない爪痕を残し、その過程を飽きもせず繰り返すだろう。

自分の尺度の頼りなさに戸惑うよりも、揺らぎの中から得たその尺度を、真に受け止め決断しよう。

2011年10月15日土曜日

朝起きてランニング。8時頃。玄関を出てみると空気が皮膚に刺さるような冷たさ。月と星が空にきりっと主張する夜を経て迎えた朝は、冷え込むようだ。確か、これは放射冷却と呼ぶのではなかったか。

走り始めると冷気は心地良さに変わる。その気持ち良さを感じる瞬間は贅沢だ。

通勤路に沿って走ってみると、地面を薄らと覆う緑の上に薄らと霜が降りていた。霜は太陽の光を浴びた所から融け始めており、そして、水滴となり葉っぱに潤いと輝きを与えていた。それにしても、霜が降りる朝がきたのだな。

一日とても素敵な青空だった。ずっとみていて飽きない、重くなく、吸い込まれそうな、嘘を知らない青だった。


空を見ていると季節を忘れそうになった。地面に向かって空気に踊りながら静かに落ちる枯れはを見て秋を思い出した。


2011年10月13日木曜日

枯れはと雨

平年より気温は少し低い今日この頃。

通勤路の樹々は黄色に色づき、葉っぱの端は枯れた茶色。弱々しく、風に吹かれれば、いとも容易く ふわふわ からから と落ちてしまいそう。最近は雨も多いので、落葉はアスファルトの上に茶色の薄い膜を張り、足を踏みしめると、グチャグチャ、ぬるっとした感触を僕の足裏に伝える。

本来、枯れた葉は乾燥した、ぱきぱき とした音で、ガラスが割れるような堅い音を奏でるのだろうけれど、雨に濡れた枯れ葉は優しい音色だ。死んだ細胞を弔うように雨は枯れた葉に優しい音色を与えるのかもしれない。

雨が続くと僕には鬱陶しい。しかし、短い夏で精一杯生きた葉っぱを、優しく弔っているのだ。そう考えれば、雨は優しい。

2011年10月10日月曜日

朝ぱっと起きてトイレ。トイレに行って本を読みたくなった。外は雨模様。秋だな。と口に出す事も無く呟いて、部屋に野積みにされた本の中から、背表紙が訴えかける本を数冊選んで朝風呂。少し熱めの風呂で、読書。急ぐこともなく、行っては戻って読み続ける。しみじみ幸せ。読書の秋。なのか、たんに、活字中毒なだけなのか。活字中毒の読書の秋なんだなきっと。

2011年10月9日日曜日

三連休。何をするということもない。ただ、その風、季節を感じるだけだ。




10kランニングした後、砂浜で携帯椅子を広げて読書。波音とともに読む文学は心地良かった。

2011年10月5日水曜日

秋風感じるこの頃にて

先月日本経由で中国に行って日本からカナダへ戻った。

そして、今。

陽は短くなり、小寒くなった。曇りがちになって、小雨が多くなった。

これも季節の移ろい。

身体は正直で、それに伴って応答する。

日の出が遅くなれば、床から出るのも億劫になり、

小寒くなって、上着はかかせなくなった。

曇りがちになれば、気持ちは内向きになり、

小雨が多くなれば、動くのも面倒になる。

しかし、それは自分を通した反応である。

自然の移ろいはそれが普通のこと。

このところ、樹々や野草は水水しくなっている。

自然がそのままであること。

それはあらねばならぬこと。

しかし、時には牙を向く。

が、それこそが、自然。

無常、無情であることは3.11で知ったではないか。

自然は自然のままでなくてはならない。

しかし、無常、無情であることは忘れてはならない。

それこそが、自然なのだ。