昨日久しぶりにバスに乗った。バスで通り過ぎ見える風景は、自分が運転する車から見える景色とは違うようだ。運転している時は、それなりにあれこれ運転に注意を払っているので、風景をぼんやり眺める余裕もない。また、見知らぬ人と場を共有しているというのも、見える風景のスパイスになるのかもしれない。不規則に停留所に止まるのも変化を与える。ここにいること、そこでみた風景、ここにたまたま居合わせた人、そこに止まること、全てが奇跡なのだ。日々生活していることは、正しく奇跡の積み重ねなのだが、そんなことは忘れがちだ。奇跡というと、大きなことを想像しがちだ。奇跡に鈍感になった時、日常が平凡に思えたり、他人に家族に優しくなれなくなる。そんなことをバスの車窓から景色をぼんやり眺めながら考えていた。そして、反省していた。
なんてことを考えたのは、くるりの「奇跡」を聞いたこと、それが主題歌である「奇跡」という映画の予告を見たからだろう。くるりの「奇跡」を聞き、予告を見ただけでも凄く切なくなった。切なくなる。そんな感情はここ最近になってようやくわかってきた。というか、敏感に身体が反応するようになった。年齢とともに涙腺が弱くなるというような話は聞いたことがあるが、それを実感している今日この頃。
奇跡のつみかさね。それが日々であり、その奇跡を感じられる年齢になってきたはずなのだが。。。
---
奇跡
くるり
いつまでも そのままで
泣いたり 笑ったりできるように
曇りがちな その空を 一面晴れ間に できるように
神様ほんの少しだけ 絵に描いたような幸せを
分けてもらうその日まで どうか涙を溜めておいて
言葉は転がり続け 想いの丈を通り越し
上手く伝わるどころか 掛け違いのボタン 困ったな
あぁいつもの君は 振り向いて笑う
溜め息混じりの 僕を許してね
退屈な毎日も 当然のように過ぎてゆく
気づかないような隙間に咲いた花
来年も会いましょう
さぁここへおいでよ 何もないけれど
どこへでも行けるよ 少し身悶えるくらい
−−−