快晴である。雲一つない。
一ヶ月強家を空けたせいで、鉢植えしてあった豆は一部に青い葉っぱを残すだけで茶枯れてしまった。1.5Lペットボトルに水を並々注いでそれを鉢の中の土に差し込んできておいたが足りなかったようだ。もう一方のシソは、シソらしい濃緑の葉が見られず、葉緑素が少し欠けた薄緑で小降りな背丈で弱々しくも生き残っていた。ベランダにある植木は、ここ一ヶ月雨が少なくなったからだろう、日本に行く前までにあんなに緑を蓄えていたのが嘘のように赤茶けた葉になり、葉自体が持つ本来の柔らかさがなくなった。いずれもたっぷりと水を与え、植物の力を信じて、ゆっくりと回復してくれるのを待とう。病がもっとも深い豆は回復するだろうか。それでも待とう。
昨晩は一度目覚めるも6時間弱寝られて、今回は意外と時差ボケが軽いのだな、と安心していたのに、昼前から猛烈な眠気。目を開けているのに頭は働かず。頭が重く、若干締め付けられるような違和感。身体にはまだ日本の昼夜サイクルが染みこんでいるようだ。こちらも徐々に回復していくことを待とう。時差ボケは治らない病ではない。
日本に帰った時、基本的には恩師と、そして時々後輩を交えて、一点で現場仕事をしていたのだけれど、その間、機会があって西から東まで大いに移動した。車窓、飛行機の窓から土地の風景を眺めていた時に田園風景ってなんて奇麗なんだと思った。田植えからそれほど時間がたっていないので水田の水が銀色に輝く。その上を雲が流れると、ちょぼちょぼと生えた稲と水の緑と銀に濃淡が生まれる。その濃淡が変化することから、視覚的に風があることを認める。視野を広げれば必ず山があり、そして川が流れる。豊かだなと思った。毎日目にしている時はそんなことを思わなかったけれど。
家の窓からは海に繋がる入り江と山というか高台が見える。その向こうにはアメリカワシントン州にそびえる高い山の頂上だけを望める。まだ残雪がある。それでも何か足りないのは、田園風景がないのと、山の木々が日本のように多様でないからか(日本でも杉、檜の山は多いけど)。ビクトリアの空港から家までの途中に農村地帯がある。そこを車で通ったりすると和む感じがあった。そこに水田はないけれど、自分に刷り込まれた風景とその農村地帯に共通項を見いだせるからだろう。
震災にあった東北、そして、それに増して原発事故に遭遇した福島のことが気になる。これから、いや既に風景を徐々に回復する作業が始まっているであろう。原発直近の福島においては、震災の被害が少なくても、放射線によってその風景から突然切り離された人も多いに違いない。風景があるのに届かない。その虚無感はいかばかりであろうか。少なくとも、枯れていても手の届くとこにあれば人の心は動く。
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