2011年2月20日日曜日

待つということ

あんたは、本を読むしか楽しみはないのですか? 。。。えぇ。他にもあるのですが、大部分はそうですね。と答えざるを得ない。学生時代もそうだった。暇があれば本を読んでいた。と言えば格好がいいが、暇が一杯あるので本を読みまくっていた。のだ。

今、一人。暇は思うがままに作ることができる。あまりうれしいものではないが。作ってしまったら、優先順位を作って時間を充てる。読書が好きというのもあるが、時間を潰せるという意味では読書はありがたい。時間を潰すという負の感覚はあるが、読書していると(頭にぜんぜん入っていないこともあることを前提に)、なんとなく頭を使っているという(世間体に考えて)正の感覚を得て、時間を浪費している感覚が薄くなる。

鷲田清一「待つということ」を読了。要約をするよりも、前書きを引用する方が早い。長いけれど。

「待つ」は偶然をあてにすることではない。何かが訪れるものをただ受け身で待つということでもない。予感とか予兆をたよりに、何かを先に取りにゆくよいうのではさらさらない。ただし、そこには偶然に期待するもものはある。あるからこそ、なんの予兆も予感もないところで、それでも自らを開いたままにしておこうとするのだ。その意味で、「待つ」はいまここでの解決を断念したひとに残された乏しい行為であるが、そこにこの世の信頼の最後のひとかけらがなければ、きっと、待つことすらできない。いや、待つなかでひとは、おそらくはそれよりさらに追いつめられた場所に立つことになるだろいう。何も希望しないことがひととしての最後の希望となる、そういう地点まで。だから、何も希望しないという最後のこの希望がなければ待つことはあたわぬ、とそこで言うべきだろう。

今、横で流れている大河ドラマ「江」を眺める。信長、秀吉、家康の「ホトトギス」の詩を思い出す。家康にとって「待つ」ってどうだったのだろうか? 

内田百閒「第一阿呆列車」を読み始める。百閒の頑固ぶりというか、偏屈さが露で読みながら笑ってしまう。手元にあるのは新潮文庫版であるが表紙の写真からして面白い。この偏屈具合を笑える余裕がある方はぜひおすすめです。立ち読みしてからどうぞ。

昨日作った鶏肉の酸っ煮が美味しかった兼煮汁が残っていて捨てるのがもったいないということで再度作る。酢を昨日より多めに入れてみたが、酢の嫌みは無く、美味い。

それを食べながら、「江」を見ている今。脇役渋いですね。個人的には「江」まだ浮ついた感じですが、今後落ち着いてくるのかな。

待つということ。江は落ち着くかな。

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